データを意思決定に活用する
集団の意見と事実の観測ではどちらが正しいか
日常に存在する意思決定のプロセスの中で、大多数の人が経験したことのあると思われるものの一つに「多数決」というものがあるかと思います。この多数決とは、ある課題または方針に対して、意見が2つあるいはそれ以上の複数に分かれた場合、その決議を数によって…この場合は多数派によって決定することを指します。Wikipediaでは「ある集団の意思決定をする。技術として、参加する単位の数を比較して多数の意思を 集団の意思とする。」としており、更に下記の通りの前提条件を設けています。
多数決の前提条件
1 集団の利益になる意思決定。
損失になる意思決定も考えられるが、目的は集団の利益である
2 集団の範囲の明示、確定。
集団の一単位の権利として意思表示が数量化できる。
3 数量による比較と、公正な検証
たとえば、ビットコインはブロックチェーンの長さで、現在の状態が最大の情報量であることで正当だと証明している。
1は簡単に言えば「皆のためになることを、多くの人が選ぶ意見や方針で決める」ですし、2については署名活動など◯◯人の人が賛同しました、などがイメージに近いかと思います。つまり、例えば10人中過半数となる6人がAという意見に賛同した場合、多数派となるため集団の利益となる場合はその意見を採用して意思決定をしよう、ということとなります。
もちろん、いくら多数派であっても議題に対する極端な意見の採用(100人中80人が賛成したので、人の資産を盗むのは良しとする、など)は受け入れられるべきではありませんし、多数決で内容が決まるからには十分な話し合いや事実の周知などが徹底されるべきです。これを疎かにする、または悪い形でハックされると一部の集団にのみ利益をもたらす結果となることがあり、よくドラマなどで見られる「謀ったな!」的な方向に向かうこともあります。本当はその集団に必要なのに多数決で追い出しちゃったりとかね(そして大抵破滅に向かうというオチ)
さて、ここで話したいのは「多数決の是非」というよりも、「多数決がモノを言う」ケースになってくると、多くの場合において良からぬ結果につながることがあるよ、ということです。ギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」では、いかに優れた意見を持つ個人がいたとして、これが集団として形を成していくと何故か暴走をして通常では考えられないような熱量を持ち、狂気的な意見を持つまでに発展することを指摘しています。更に興味深いのは、この書籍で語られている19世紀末の内容はほぼそのまま現代にも当てはまるというところです。
民主主義における群衆(集団)は近年の選挙結果でもその意思が図れるように、基本的に道理やロジックといった「論理的な正しさ」よりも熱量と主義・主張が優先される傾向にあります。というより、多数決における意思決定についてはどうしても事実や根拠を差し置いて、数による決定という理屈が勝ってしまうためいささか仕方のないことでもあります。
この傾向は特にSNSが普及してきた2010年代〜2020年代で感じるのですが、いわゆる「事実」、つまり本当に起こっていること、観測されたことをまとめた情報よりもエコーチェンバーにより増強された「事実でない」情報、または一部事実であっても全体を捉えていない情報による煽動の方が、意思決定に深刻なインパクトをもたらす状況にあります。
エコーチェンバー現象
自分と似た意見や思想を持った人々の集まる空間(電子掲示板やSNSなど)内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込んでしまう現象
事実に対する思い込みと誤解
例えば、よくある「凶悪な犯罪がどんどん増えている(気がする)」という意見は犯罪発生の統計情報と照らし合わせると必ずしも事実とは言えないことはわかります。下記の統計情報は公益社団法人 日本防犯設備協会が警察庁のデータを出典として作成した刑法犯犯罪認知件数と検挙率のグラフですが、約270万件記録された2001年から2011年までの10年間で約122万件が減少し、検挙率に関しては19.8%から30.8%まで上昇しています。更に10年後の2021年では約57万まで件数が減少しており、検挙率に至っては46.6%と約半数近くまで迫っています。言い換えると、年々犯罪件数は減っていて、検挙されている割合は上がってきているということです。
*公益社団法人 日本防犯設備協会HPより引用
この「近年は凶悪な犯罪が増加している」という誤解に関しては京都産業大学の田村教授も指摘しており、以下のように述べられています。
ではなぜ「増えていて、凶悪化している」という誤解が広がるのでしょうか。
一つは、人は誰もが悪いことに敏感に反応するからです。悪いニュースは広まりやすいのに対して、良いことはほとんどニュースに取り上げられません。また、多くの面で改善していても、悪い事態が一部であれば、専門家も、責任ある行政機関も、「一部で悪化している」ことを指摘して注意喚起をするのが通例です。ニュースに流されるのではなく、客観的な事実をきちんと知ろうとすることが大事だといえます。
もう一つは、被害が少ない社会になったからこそ、一つ一つの被害が深刻な影響をもたらし、社会的にもより注目されるようになってきたことです。交通事故を含む不慮の事故で亡くなった30歳未満の方は、平成元年には7,593人でしたが、平成28年には1,262人と大幅に減少しています(子ども若者白書巻末6.1参照)。人生には様々なことがあり運が悪ければ途中で命を落とすこともあるという社会から、人は不当な侵害を受けることなく、高齢になるまで死なないのが当たり前の社会になったことが、「あり得ないはずの事態」をもたらす犯罪に厳しい目が向けられ、社会的な反応を大きくしているといえます。
https://www.kyoto-su.ac.jp/faculty/ju/2019_03ju_kyoin_txt.html
つまり、幸運なことに日本全体として犯罪発生率を低下させるために努力して件数が下がった結果、一件あたりの社会的なインパクトが大きくなってしまったという皮肉な状況となっています。誰にでも起こりえることから、滅多に起こりえないことになったけれどその分身近なものではなくなった…と言えるかもしれません。(一方で、重要犯罪という殺人以外の放火・強制わいせつなどは増加しているという報告もあります)
しかし、前述のインパクトの大きさ、SNSによる拡散スピードが上がったことによって「凶悪な犯罪が増えた!」と考える人が増えた状況になった可能性が高そうです。こうなると難しいのが
・事実として、犯罪件数は減少した
・その結果として、一件あたりの凄惨な状況が気になるようになった
・よって、ますます対策を練らなければいけない(民意となりうる)
というループに入ってしまう危険性があるからです。
当然ですが、犯罪件数を0にすることは不可能に近いほど困難を極める試みです。そのためにかかるコストと費用対効果を考えると、確かに犯罪件数が限りなく0に近いほど心理的安全性は担保されますが、果たしてペイできるかという疑問が残ります。しかし、民主主義では多数決による意思決定が尊重されるので「犯罪を0にすべきだ」という選択肢が提示された場合、それが選ばれる可能性があるということです。
この集団の意見と権力が結びつくと非常に危険な方向に行くのですがそれはまた別の話として、ここで考えたいのは事実…データが集団の意見をひっくり返すに足るか、という点です。先の通り、犯罪件数は着実に減少しているにも関わらず、SNSやニュースなどで得た情報とバイアスが重なってしまうとデータの力だけでそれをひっくり返すのは非常に難しく、ともすれば「データに固執している頭の固いヤツ」というレッテルを貼られかねません。
(ただし嘘つきはデータを使うんだから困ったもんだ)
意思決定のためのデータを使ったコミュニケーション
実は私が最もデータを扱うときに恐れているのはこの温度差というか捉え方の違いであり、データに固執をすれば確かにデータを信じない、もしくはデータが自分の直感よりも二の次である1と考えている人と折り合いをつけるのは非常に難しい時があります。しかし、データを用いずに「自分の観測範囲ではこうなってるんで〜」という非常に狭い情報の範囲から出した結論は信ずるに値しない場合もあり、それこそ「それってあなたの感想ですよね」となりかねない。
そのため、データを使って意思決定をする際には
1. 自分はこのように考えている/考えた(仮説)
2. 事実はこのようになっている(データ/検証)
3. 仮説とデータを元にすると、このような考えが妥当であろうと考える(その時点での結論)
4. 私の結論はこうであるが、それに対する意見はどのようなものがあるか?(外部との擦り合わせ、意識共有)
というステップを踏み、意思決定までを丁寧かつ協調的に行う必要があると私は考えています。そこには一方的な決定や権威性はいらず、あくまで民主的かつ論理的に行われるべきものである。当然それに対して造詣が深い、浅いの違いはあれど、まずは議論まで持っていくのがベターです。そうでなければ、データを使ったコミュニケーションよりもステークホルダー同士のパワーバランスや上下関係が優先され、是々非々で物事を決められなくなってしまうからです。
時には「長いものに巻かれる」という処世術も必要だとは思いますが、そればっかりやっていると結局データが意味のないものになってしまいますし…。
また、このコミュニケーションのときにいつも重要だと思いつつ、中々足並みが揃えられないものの一つが「何に着目すべきか」という点です。
「群盲象を評す」「群盲象を撫でると言い方は複数ありますが、要は「自分が触れた一部をもって全てをそのようだと決めつけるが、実態を捉えられていない」という状況を表しています。下記画像の通り、硬く大きな部分を見て「これは壁だ」と言う人もいれば、細く尖った部分を見て「これは槍だ」という人もいるけれど、その実態はすべて象の一部であり、いずれも正解ではありません。
データを扱って何を説明しようとするとき、あるいは議論をするときに痛いほどこの言葉を痛感するのですが、全体が見えていないのに一部を取り上げて2「これはこうである」と決めつけてしまう危険性があります。それは自分で探し、整理したデータを元に話す人ほどそういう自信を持ってしまっている節もあります。
しかし、本当にそれは実態を捉えているのか?ということを考慮しなければいけませんし、何よりも「データを使って何を説明したいのか、何について回答するのか」ということを常に意識しなければなりません。
これは何もデータを使ったコミュニケーションに限った話ではありませんが、「今回はXXXについてこの観点から説明する。そのため、YYYについては焦点を当てず、議論の範囲外とする」と予め定めておく必要があります。以前、クリティカルシンキングの講義を受講したときにもあるあるなケースで挙がったのが「そもそも論」ですが、ステークホルダーで意思疎通ができていないと前提を覆される危険性もあります。そのため、足並みをそろえた上で「この件についてはこういうデータがある」というスタートをしなければ、到底最終的な合意は得られません。国会なんか見てるとまさにそんな気もしますけど。
話は少し逸れましたが、つまり何かしらの意思決定に携わる情報を出す、または議論する際に「この点について話しましょう、それ以外のことは範囲外です」としておかなければ「データではこう出ている」「いやそもそもこの話は…」「データなんて無意味だ!(暴論)」という平行線を延々と辿ってしまう可能性があります。そのために、データを使う者として意識しておかなければならないのは上記の4ステップに加えて、
- データはあくまで意思決定をサポートしているものである
- 私はデータを用いているがあなたの意見を聞かないつもりはない
- 対話は歓迎であるが、具体的にどこが気になるのか指摘してほしい
という対話と実験・検証の姿勢だと思います。データを使い議論をする、ないしは意思決定をする者は対話の姿勢を捨ててはいけないのです(いわんや相手の無知を見下し切り捨てるなどもっての外)
昨今のSNS上を交えた現実世界の議論はそもそもその姿勢にも問題がありますし、情報源がデマであることすらあります。ですので、常にデータの可能性と有用性を信じつつも、自分は間違っているかもしれないという理性を持つことが求められます。